進化的人間考 長谷川真理子 著
本書は、生物学者である長谷川眞理子氏が、ヒトという生物を
進化の視点から多角的に考察し、「人間とは何か」という根源的な問いに迫る一冊です 。ヒトと最も近縁なチンパンジーとの比較を起点とし 、直立二足歩行、脳の大型化、長い子ども期といった身体的特徴から 、言語、文化、社会性の起源までを論じます。
本書の核心的な主張は、ヒトの最大の特徴が**「共同繁殖」
と、それを可能にする「三項表象の理解(意図の共有)」**にあるという点です 。ヒトの子どもは脳が非常に大きいため、未熟な状態で生まれ、長い期間にわたって親の世話を必要とします 。この莫大な子育てコストを母親一人で賄うことは不可能であり、父親、祖父母、兄姉、さらには集団の他のメンバーが協力して子どもを育てる「共同繁殖」が、ヒトの生物学的な本質であると結論づけています 。
この共同繁殖と社会的な協力関係を支える認知的な基盤が、他者と自分、そして対象物についての関心や意図を共有する「三項表象の理解」です 。この能力こそが、言語や文化を生み出し、複雑な社会を形成する原動力となったと考察しています 。
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用語の説明 三項表象
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「共同繁殖」と「三項表象の理解」、この2つのキーワードは、私たちがなぜ他の動物とこれほど違うのかを解き明かす、とても重要な鍵となります。初心者の方にもわかりやすく解説しますね。
一言でいうと、
「共同繁殖」とは、母親と父親だけでなく、祖父母、兄や姉、さらには血縁関係のない集団のメンバーまでが協力して子育てをすることです 。
なぜヒトは「共同繁殖」をするの? 🤔
理由は、
ヒトの赤ちゃんがとてつもなく手のかかる「大変な存在」として生まれてくるからです 。
脳が大きすぎる:ヒトの最大の特徴は大きな脳ですが、その脳が成長しきる前に、産道を通れるギリギリのサイズで生まれてきます 。これを「生理的早産」といい、他の動物ならまだお腹の中にいるような未熟な状態で生まれてくるのです 。
長い子ども時代:未熟な状態で生まれてくるため、ヒトの子どもは一人前になるのに約20年もかかります 。離乳してもすぐに自分で食べ物を獲ることはできず、長い間、大人の保護と教育が必要です 。
この「一人の子どもを育てるのにかかる莫大な時間とエネルギー」を、母親一人で背負うのは不可能です 。そこで、ヒトは進化の過程で、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、近所の人たちなど、
社会全体で子育てのコストを分担するという戦略を選びました。
鳥や哺乳類の世界を見ても、両親以外の個体が子育てを手伝う「共同繁殖」は珍しいのですが、人間はこれを当たり前に行う、数少ない哺乳類なのです 。つまり、「子育ては社会がするもの」というのは、単なる理想論ではなく、
ヒトという生物に深く刻まれた本質的な特性だと言えます 。
「三項表象の理解」は少し難しい言葉ですが、やっていることはとてもシンプルです。これは**「私」と「あなた」が、同じ「モノ(外界)」に注意を向け、そのことについて「心を共有する」能力**のことです 。
赤ちゃんの「指さし」に隠されたすごい能力 👆
この能力を最も分かりやすく示しているのが、赤ちゃんの**「指さし」**です 。
想像してみてください。
赤ちゃんが散歩中に犬を見つけます。
赤ちゃんは犬を
指さし、「あっ、あっ」と声を出しながら、お母さんの顔を見ます 。
お母さんは赤ちゃんの視線を追い、犬を見てから、再び赤ちゃんの顔を見て「ワンワンだね、かわいいね」と微笑みます 。
この何気ないやり取りの中に、「三項表象の理解」の全てが詰まっています。
赤ちゃんがしたいこと:
× 単に「犬がいる」と伝えたいだけではない。
× 単に「犬が欲しい」と要求しているわけでもない。
○ 「ねえ、見て!僕が見てるこの面白いもの(犬)を、お母さんも一緒に見て!この気持ちを共有しよう!」 と思っているのです。
つまり、「私(赤ちゃん)」「あなた(お母さん)」「モノ(犬)」という3つの要素の間で、
「同じものに注目しているね」ということをお互いに確認し合い、感動や興味を分かち合う能力、これが「三項表象の理解」です 。
では、「共同繁殖」と「三項表象の理解」はどう繋がるのでしょうか?
結論から言うと、
「三項表象の理解」という心の働きが土台にあるからこそ、ヒトは「共同繁殖」という高度な協力行動ができるのです 。
「あの子どもがお腹を空かせているようだ。(意図の共有)」→「じゃあ私が食べ物をあげよう。(共同繁殖)」
「あそこに危険な動物がいる。みんなも気づいているかな?(意図の共有)」→「みんなで協力して子どもたちを守ろう。(共同繁殖)」
他者が何を考えているかを推測し、目的や気持ちを共有する能力がなければ、複雑な共同作業は成り立ちません 。この能力は、共同繁殖だけでなく、
言葉(言語)や文化を生み出すための最も基本的な認知基盤でもあるのです 。
このように、「みんなで子育てをする」という行動(共同繁殖)と、「みんなで心を共有する」という能力(三項表象の理解)は、人間性を形作る車の両輪のような関係にあると言えるでしょう。
用語の説明終わり
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本書の進化的な人間理解は、現代の幼児教育、特に非認知能力の育成において極めて重要な示唆を与えてくれます。
協調性・社会性:ヒトは「社会」の中で育つように設計されている
本書の示唆: ヒトは、母親だけで子育てをするように進化してきたわけではなく、多様な人々(父親、祖父母、兄姉、地域の大人など)が関わる**「共同繁殖」が生物学的な標準**です 。子どもは、異年齢の集団の中で下の子の世話をしたり、上の子から学んだりしながら社会性を自然に身につけてきました 。
非認知能力への応用: 核家族化が進み、人間関係が希薄になりがちな現代において、「ワンオペ育児」はヒトの本性に反した、きわめて不自然で困難な状況と言えます。子どもが協調性や社会性を育むためには、家庭内だけでなく、意図的に多様な人々や異年齢の子どもと関わる機会を創出することが、進化の観点からも理にかなっています。この多様な関わりの中で、子どもは他者を信頼し、社会のルールを学び、自分の役割を認識するようになります。
好奇心・意欲:心の「共有」が学びの原動力
本書の示唆: 赤ちゃんが指さしをしながら大人の顔を見る行動は、「見て!面白いものがあるよ!」と他者と興味や感動を共有したいという強い欲求の表れです 。これは「三項表象の理解」の芽生えであり、言語や文化の基礎となるヒトに固有の能力です 。
非認知能力への応用: 子どもの知的好奇心や学びへの意欲は、一人で黙々と探求する中で育つだけでなく、「わかった!」「すごいね!」という感動を誰かと共有する喜びによって大きく増幅されます。保育者や保護者が、子どもの発見に対して「本当だね、面白いね」と心から共感し、同じ方向を見て関心を共有する姿勢を示すこと。この繰り返しが、「もっと知りたい」「もっと伝えたい」という主体的な学びの態度(意欲・探求心)の土台となります。
自己肯定感・やり抜く力:「時間をかけて学ぶ」ことを許容する
本書の示唆: ヒトは、獲得が難しい食物(狩猟による肉や加工が必要な植物)を食べるように進化したため、その技術を習得するのに非常に長い子ども期を必要とします 。すぐに一人前になれないのは、ヒトの脳が複雑なスキルを学ぶために時間を要するからです。
非認知能力への応用: 大人は、子どもがすぐに「できない」ことに対して焦りを感じがちです。しかし、進化の視点で見れば、子どもは**「時間をかけて試行錯誤しながら学ぶ存在」**です。何度も失敗しながら、少しずつスキルを身につけていく過程そのものが、ヒトの子どもにとって自然な成長の姿です。このプロセスを温かく見守り、励ます関わりが、困難な課題にも粘り強く取り組む力(やり抜く力)や、「自分はできる」という感覚(自己肯定感)を育みます。
【スキル①】「みんなで育てる」環境をデザインする
目的: 協調性、社会性、基本的な信頼感を育む。
アクションプラン:
保育園や幼稚園だけでなく、地域の児童館、公園、多世代交流施設などを積極的に利用し、祖父母世代や異年齢の子どもたちと関わる機会を意図的に作る。
親戚や友人と子どもを預け合うなど、血縁や友情に基づいた「共同繁殖」のネットワークを意識して構築する。
「子育ては親だけの責任ではない」という本書のメッセージを心に留め、助けを求めることをためらわない。
【スキル②】子どもの「指さし」に応える共感的コミュニケーション
目的: 好奇心、探求心、表現力を育む。
アクションプラン:
子どもが何かを指さしたり、「あ!」と言ったりした時は、すぐにスマートフォンなどから目を離し、「なあに?」と子どもの視線の先を一緒に追う。
対象物を見つけたら、「ほんとだ、お花が咲いてるね」「ワンワン、かわいいね」と
見たままを言葉にし、子どもの顔を見て微笑みかける 。
正しく教えることよりも、まずは「一緒に見ているよ」「面白いね」という感動の共有を最優先する。
【スキル③】「待つ」ことで挑戦する心を育てる
目的: 自律性、やり抜く力、自己肯定感を育む。
アクションプラン:
子どもが服のボタンを留めようとしたり、ブロックを高く積もうとしたりしている時、すぐには手伝わず、最低1分間は見守る。
子どもが「できない!」と癇癪を起したり、助けを求めてきたりした時に初めて、「どこが難しい?」「一緒にやってみようか」と声をかける。
「手伝ってあげる」のではなく、「挑戦をサポートする」というスタンスで関わる。
【スキル④】「共同幻想」を豊かにする物語とごっこ遊び
目的: 想像力、共感性、他者視点を育む。
アクションプラン:
絵本の読み聞かせを日課にする。物語という「共同幻想」 の世界を共有することで、他者の気持ちを想像する力を養う。
おままごとやヒーローごっこなどの「ごっこ遊び」に積極的に付き合う。役割を演じる中で、社会のルールや他者の視点を学ぶことができる。
長谷川眞理子氏の『進化的人間考』は、現代の幼児教育が「ヒトの生物学的な本性」から乖離しつつある現状に、重要な警鐘を鳴らしています。ヒトは**【一人で子育てをするように設計されておらず、共同体の中で、他者と心を共有しながら育つ】**ように進化してきました。
これからの幼児教育の発展のためには、個別のスキルやテクニック論に終始するのではなく、まずこの**「ヒトの子どもにとっての自然な育ちの環境とは何か」**という原点に立ち返る必要があります。
課題: 核家族化、地域のつながりの希薄化、過度な早期教育による競争の激化は、ヒトが進化の過程で築いてきた「共同繁殖」や「共感的なコミュニケーション」の機会を奪いかねない。
提言: これからの幼児教育や子育て支援政策は、「社会的・文化的な共同繁殖の仕組み」をいかに再構築するかという視点を持つべきです。保育施設を単なる預け先ではなく、親も子も多様な人々と繋がれる地域のハブとして機能させること。そして、保育者や保護者は、子どもに何かを「させる」のではなく、子どもが本来持っている「他者と関わりたい、世界を共有したい」という進化的な欲求に寄り添い、それを引き出す「環境」を整える専門家としての役割が、より一層求められるでしょう。
進化の視点を取り入れることは、日々の保育や子育てにおける迷いや不安に対し、「それで良いのだ」という科学的な根拠と確信を与えてくれる、力強い羅針盤となります。
書籍『共感の時代へ』は、
人間の「共感」や「協力」する能力が、文化や教育によって後天的に身につけられた薄いベールのようなものではなく、生物としての進化の過程で深く根付いた本能であることを、数多くの動物行動学の研究から明らかにする一冊です。
この知見は、子どもたちの非認知能力を育む上で、非常に重要な示唆を与えてくれます。それはつまり、教育者の役割が、ゼロから道徳を「教え込む」ことではなく、子どもが生まれながらに持つ共感の種を「育む」ことにある、という視点です。
本書の洞察に基づき、幼児教育の現場で非認知能力を育むための体系的・実践的なヒントを3つにまとめてご紹介します。
本書の著者についての情報は以下の通りです。
フランス・ドゥ・ヴァール (Frans de Waal)
職業: 動物行動学者
専門分野: 霊長類の社会的知能研究の世界的権威として知られています 。
現職: ヤーキーズ国立霊長類研究センターのリヴィング・リンクス・センター所長、エモリー大学心理学部教授 。
主な業績・評価:
最初の著書『チンパンジーの政治学』は15か国語以上に翻訳され、広く人気を博しました 。
2007年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれました 。
その他の著書: 『利己的なサル、他人を思いやるサル』、『あなたのなかのサル』などがあります 。
本書は、共感が「もし自分が相手の立場だったら…」と頭で考える高度な認知能力から始まるのではなく、
他者の感情が自分の身体に自動的に伝播する「情動伝染」が核にあると説きます 。あくびがうつるように、誰かが笑うと自分も楽しくなり、誰かが泣いていると悲しくなる。この身体的なつながりこそが、共感の最も原始的で強力な土台なのです。
身体のシンクロを促す遊び: 保育者が子どもと一緒に同じ動きで手遊び歌をしたり、音楽に合わせて踊ったり、鏡のように相手の動きを真似する「ミラーゲーム」を取り入れたりすることは、身体を通じた一体感を育み、共感能力の土台を強固にします 。
感情の伝染を言葉にする: 友達が泣いているのを見て、つられて悲しくなった子に「〇〇ちゃんが泣いていて、悲しくなったんだね」と言葉をかけてみましょう。これは、自分の身体が感じている感情の源が他者にあることをつなげる手助けとなり、自己と他者の感情を区別し理解する第一歩、すなわち感情のコントロールや自己認識の基礎となります。
保育者自身の感情の安定: 情動伝染は子ども同士だけでなく、保育者と子どもの間でも強く働きます。保育者が穏やかで安定した感情でいること自体が、クラス全体の安心感と安定につながる最も効果的な環境設定です。
著者は、人間社会を「競争」原理だけで捉える見方を批判し、多くの動物が協力し、分け合うことで生き延びてきたことを示します 。また、サルを使った実験では、自分だけ報酬が少なかった場合に強い不満を示すことから、
「公平さ」を求める感覚もまた生得的なものであることが示唆されています 。
「シカ狩り」型の協力をデザインする: 本書で紹介される「ウサギを狩るか、シカを狩るか」のジレンマのように 、一人で達成できる小さな目標(ウサギ狩り)だけでなく、
皆で協力しなければ達成できない、より大きな魅力的な目標(シカ狩り) を設定しましょう。例えば、大きな模造紙に皆で絵を描く、大きなブロックで一つの基地を作るなど、協調性や社会性を自然に引き出す活動が有効です。
「公平さ」を体感できるルール作り: おやつの分配などでいざこざが起きた際、本書の著者が家庭で実践した「一人が切り分け、もう一人が選ぶ」というルールは、子どもが公平さを学ぶ上で非常に優れた方法です 。また、人気のあるおもちゃの順番待ちリストを作るなど、誰もが納得できる公平なルールは、子どもの
道徳性の芽生えをサポートします。
意味のある役割を与える: 子どもたちに植物への水やりや配膳の手伝いなど、クラスの一員として意味のある役割を与えることで、「自分は集団に貢献できる存在だ」という感覚が育まれます。これは自己肯定感や責任感の基礎となります。
本書が示す共感の構造は、ロシアの入れ子人形「マトリョーシカ」にたとえられます 。その核には身体的な「情動伝染」があり、その外側に「他者への気遣い」、そして最も外側に「相手の視点や状況を理解する」という認知的な層が存在します。幼児期は、この核の部分から徐々に外側の層を発達させていく大切な時期です。
気持ちを想像させる問いかけ: おもちゃの取り合いが起きた時、一方的に「貸してあげなさい」と言うだけでなく、「〇〇ちゃんは、今どんな気持ちだと思う?」「もしあなたがそうされたら、どう感じるかな?」といった問いかけをしてみましょう。これは、自分の視点から相手の視点へと意識を移行させ、想像力や問題解決能力を育むトレーニングになります。
物語の世界で心を旅する: 絵本の読み聞かせは、視点取得能力を育む絶好の機会です。登場人物の気持ちについて「この時、うさぎさんはどうして嬉しかったんだろうね?」などと話し合うことで、子どもたちは安全な形で他者の心を想像する練習ができます。本書でも「赤頭巾ちゃん」の物語を例に、子どもの視点取得の発達段階が説明されています 。
援助行動の理由を言語化する: 子どもが他の子を助けた時、「助けてあげて偉いね」と褒めるだけでなく、「〇〇ちゃんが困っているのがわかったんだね」「あなたが手伝ってくれたから、〇〇ちゃん、とても助かったと思うよ」と、相手の状況を理解して行動したというプロセスを言葉にして伝えることで、より高度な共感(対象に合わせた援助)への発達を促します。
書籍『共感の時代へ』が幼児教育に与える最も大きな知見は、子どもたちを「生まれながらにして社会的な存在」として捉え直す視点です。彼らの内に秘められた共感し、協力し、公正であろうとする生物学的な力を信じ、それを引き出し、育んでいく環境を整えること。それこそが、これからの時代に求められる、真に豊かな非認知能力を育むための鍵となるでしょう。
『音楽好きな脳』は、
音楽が人間の脳や心にどのように影響を与えるかを認知神経科学の視点から解き明かした一冊です。この本から得られる知見は、幼児の非認知能力を育むための体系的かつ実践的なヒントに満ちています。
本書の著者ダニエル・J・レヴィティンは、音楽が単なる娯楽ではなく、人間の進化や脳の発達と深く結びついた本能的な活動であると主張しています 。主要なポイントは以下の通りです。
音楽は普遍的・本能的な活動: 有史以来、音楽を持たない文化は存在せず、音楽を生み出すことは呼吸や歩行と同じくらい自然な行為でした 。これは、音楽活動が幼児にとって極めて自然で受け入れやすい学習ツールであることを示唆します。
脳は音楽を全体で処理する: 音楽を聴いたり演奏したりする行為には、感情を司る扁桃体、運動を司る小脳、記憶を司る海馬など、脳のほぼすべての領域が動員されます 。したがって、音楽は子どもの発達をホリスティックに促す強力な手段となり得ます。
期待とスキーマが感情を生む: 私たちが音楽を楽しむ上で重要なのは、次に何が起こるかを「予測」する脳の働きです 。作曲家は、私たちが文化や経験を通じて無意識に学習した音楽の規則性(スキーマ)を巧みに利用し、期待を裏切ったり満たしたりすることで感情を揺さぶります 。このプロセスは、認知的な柔軟性や問題解決能力の土台を育みます。
本書の知見を基に、音楽活動が幼児のどのような非認知能力を育むかを以下の表にまとめました。
育む非認知能力
関連する本書の知見
社会性・共感性
音楽は歴史的に共同体をつなぐ社会活動であり、演奏側と聴衆という区別は比較的新しいものです 。他者とリズムや音を合わせる体験は、協調性や一体感を育みます。また、他者の演奏を見る・聴くことでミラーニューロンが活性化し、共感の神経的な基盤が作られる可能性があります 。
自己肯定感・主体性
音楽には本来、上手い下手という区別は存在しませんでした 。ソト族の村人にとって歌えないことは「喋っているのに歩けない」と言うのと同じくらい奇妙なことでした 。子どもが音を出すこと自体を承認し、楽しむことで、自己表現への自信と主体性が育まれます。
やり抜く力(グリット)
あらゆる分野の専門技術の習得には約1万時間の練習が必要だとされています 。幼児期に複雑な技術は不要ですが、簡単なリズムを繰り返したり、歌を最後まで歌ったりする中で「できた!」という達成感を味わう経験が、やり抜く力の基礎を築きます。
感情コントロール(自己調整)
音楽は、扁桃体や小脳といった感情や覚醒を司る原始的な脳(爬虫類脳)に直接働きかけます 。活動に合わせた音楽(静かな活動には穏やかな曲、活発な活動にはリズミカルな曲)を用いることで、子どもは感情状態を調整する体験をします。
創造性・好奇心
音楽の楽しみは「予測」と「裏切り」のバランスにあります 。様々なジャンルの音楽に触れることで、子どもの音楽的スキーマ(枠組み)が豊かになり、新しいパターンを発見する好奇心や、即興で音を組み合わせる創造性が刺激されます。
Google スプレッドシートにエクスポート
上記の知見を、保育者や保護者が日々の実践で活用できる具体的なスキルに落とし込みました。
評価より共感を: 「上手だね」「間違ってるよ」という評価的な言葉の代わりに、「楽しい音だね!」「なんだかワクワクするリズムだね」と、感じたままの気持ちや音の様子を言葉にします。
探求を促す問いかけ: 子どもが意外な音を出したときに、「わあ、びっくりした!次はどんな音がするかな?」「その音、なんだか面白いね。どうやって出したの?」と、子どもの発見への好奇心を刺激します。
リズム模倣遊び: 保育者が手や楽器で叩いた簡単なリズムを、子どもが真似する遊びです。徐々に長くしたり、速さを変えたりすることで、注意深く聴く力と記憶力を養います。「コール・アンド・レスポンス」の形式は、会話のターンテーキングの練習にもなります 。
なりきりダンス: 様々なテンポや雰囲気の曲(楽しい曲、悲しい曲、勇ましい曲など)をかけ、その曲の登場人物になったつもりで自由に体を動かします。音楽が持つ感情の多様性を体感し、表現力を育みます。
音探し探検: 身の回りにある様々なもの(コップ、机、葉っぱ、石など)を使い、「どんな音がするか」を探求します。楽器の音色の違い(ティンバー)は、倍音の構成によって決まるという本書の指摘通り 、子どもたちは世界が多様な音で満ちていることを発見します。
多様な音楽シャワー: 「子どもの歌」に限定せず、クラシック、ジャズ、ロック、世界各地の民族音楽など、多様なジャンルの音楽をBGMとして日常的に流します 。これにより、子どもの脳内に豊かな音楽的スキーマが自然に形成されます 。
アクセシブルな楽器コーナー: 特別な楽器でなくても、タンバリン、鈴、太鼓、木琴など、子どもがいつでも自由に手に取って音を出せるコーナーを設けます。「音楽は特別な人のものではない」というメッセージを環境が伝えます 。
音楽によるトランジション: 「お片付けの音楽」「お集まりの音楽」のように、活動の切り替えの合図として特定の音楽を使います。これにより、子どもは見通しを持って主体的に行動できるようになります。
『音楽好きな脳』から得られる知見は、これからの幼児教育、特に非認知能力の育成において、以下の3つの重要な視点を示唆しています。
音楽の起源は、評価されるべき専門技術ではなく、共同体をつなぐ社会的な活動にあります 。幼児期の音楽教育で最も大切なのは、技術的な正確さよりも、他者と音を合わせる喜びや、音楽を通じて感情を共有する楽しさを体感することです。一緒に歌い、踊り、リズムを合わせる体験そのものが、協調性や共感性といった社会性の土台を築きます。
私たちの脳は、生まれた文化の音楽に触れることで、その音楽の「文法」を無意識のうちに学習していきます 。これは、多様な音楽に満ちた豊かな聴覚環境が、子どもの脳の可能性を広げることを意味します。様々なジャンルの音楽をただ聞き流すだけでも、脳は多様なパターンや構造(スキーマ)を吸収し、それが後の学習能力や創造性の基盤となります。
音楽の深い喜びは、次にくる音を予測し、その予測が心地よく満たされたり、面白く裏切られたりするプロセスから生まれます 。この「予測と裏切りのゲーム」は、認知的な柔軟性を養う絶好の機会です。いつも同じ決まった曲だけでなく、時には少し複雑なリズムや意外な展開のある曲に触れさせることで、子どもたちは精神的な挑戦を楽しみ、思い通りにならない状況にも対処する心のしなやかさ(レジリエンス)を育てることができます。